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  ○月×日 沢木耕太郎「1960」読了
 

 以前、沢木のこのシリーズを読むことを「記憶のなかで美化された思い出の写真を見るような感覚」と書いた。今回の巻に収められた「テロルの決算」を読んだのは10代の頃だから、まさにそれは初恋の記憶を辿るようなものだろう。ご存知の方も多いと思うが、「テロルの決算」は、1960年に起こった当時の社会党委員生・浅沼稲次郎刺殺事件の犯人、山口二矢と浅沼の人生を辿り、その2つの人生が交錯する事件のなかで生まれたある伝説を確認することで結ばれる物語だ。再読して驚いたのは、10代で読んだ際には浅沼についての記述にほとんど感応しなかったらしく、その内容をほとんどおぼえていなかったのに、今回は彼の軌跡にいろいろと思うことが多かったということ。それは単に僕が年をとったということだけなのかもしれない。それにしても、少なくとも彼の物語は思想に殉じた青年の先鋭性とのコントラストのなかでのみ読まれるのではなく、夭折した若者のあり得べき後半生としての側面を備えているように思える。
 収録されたもう一編「危機の宰相」は、文芸春秋に掲載された後、長く単行本化を望まれながら今回まで果たされなかった作品で、単行本化に長く至らなかったそのいきさつは巻末の著者による解説のなかで語られている。こちらは、"所得倍増"を旗印に戦後の日本の行方を決定づけた池田勇人とその二人のブレーンをめぐる物語。ここで沢木は、吉田茂の"グッド・ルーザー=よき敗者"という言葉を引きながら、池田たちの成功を一度人生に敗れた者たちによるリベンジだと位置づける。それは、「テロルの決算」の年齢的(?)読み直しに倣って言えば、夭折することなく生き長らえてしまった人間の信念の記録としても受け取れるだろう。
 三島由紀夫は、ジェームス・ディーンについての文章のなかで「人生は、美しい人は若くて死ぬべきだし、そうでない人はできるだけ永生きすべきだろう。ところが95パーセントまでの人間はその役割を間違える」と書いている。僕は多分、「若くて死ぬべき」役割ではなかったと思うのだけれど、かと言って「できるだけ永生きすべき」と言われてもちょっと困る。というか、世の中のほとんどの人は「若くて死ぬべき」役割ではないはずだから、たらたらと生き長らえることについての作法を身につけなくてはならない。だからこそ、そうした普通の人々は沢木が描く「よき敗者」に強い共感を寄せることになるのだ。

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クョスコニョ    [1] 
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