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  ○月×日 神様が降りてきたら教えてね
  「何も準備をしないで、“下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる”でバシャバシャ撮れば絶対いいのがあるよ、っていうことはあり得ないんです」と、篠山紀信は言った。
「絶対当たらない。やっぱり、ある意志を持って、それに向かっていくなかで、1枚だけ神様が降りて来るっていうことがあるだけでね。もちろん、降りて来ないこともあるし」
 どんなに準備をしても最高の結果が得られるとは限らないことはよく承知していても、準備はしなければいけない。準備することは、最高の結果を得るための参加資格ということだろうか?
 雑誌「NUMBER」でプロ野球のキャンプ・リポートや日本シリーズ総評に際して江夏豊はしばしば「いい準備」という表現を使う。早稲田大学ラグビー部の中竹竜二監督はかつて、準備力ということを話してくれた。良い結果を得られたから良い準備だった、という結果論としてではなく、準備には良い/悪いがある、と。いつでも、いかなることに対しても、良い準備を出来る能力を準備力というわけだ。
 早明戦を数日後に控えた早稲田のラグビー部の練習を見た。熱を帯びた、しかしじつに静かな練習だった。生意気に、”いい準備をしている”と思ったのだけれど、その準備が何に向けられたものであるのかということに考えが至ったところで、少し考えを改めることになった。すなわち、「いい準備」をする人間は、何かの参加資格を得るためにそうしているわけではなく、準備をするという行為そのものに何かの意味を、もっと言えば歓びを見出しているのだろう。あるいは、歓びを見出す者こそがいつでもどこでも「いい準備」をできると言うべきか。中竹流に言えば、歓びを見出す者は高準備力者ということになる。
 では、その歓びとはいかなるものか? 早稲田ラグビー部について言えば、ラグビーは楽し、というようなことになるのかもしれない。もちろん、「楽しい」などという平たい言葉では掬い取りようがない意識が交錯がしているであろうことは容易に想像できるけれど、それにしても彼らが、ある濃密な時間のなかに在る者だけが感じられる引き締まった、そして透き通った精神状態を生きていることは間違いないようにも思える。意識の純化、ということ。その程度が突き詰められていく過程を「準備」と呼ぶのかもしれない。そして、そこに関わる人間の「準備」が奇跡的な配合で重なるとき、篠山紀信が言うように「神様が降りてくる」ということもあるのかもしれない。
 早明戦を見ると、早稲田ラグビー部の「準備」がそこに向けられたものではなかったことは明らかで、個人的には大学選手権の決勝や、トップリーグとの対決にさえ向けられていないような気がする。当人たちがその行き先を明確に承知しているのかどうかあやしいとも思う。自足していくことが純化だとすれば、結局のところ「準備」は本来的に方向を、あるいは時間的な流れを持たないものなのかもしれない。
 ところで、そうした純化はしばしば狂気と紙一重のところをさまようことになるけれども、今年の早稲田ラグビ−部では一見狂気とはまったく無縁に見える1年坊が活躍しているのが面白い。10番の人を食ったキック・ダミーや11番のふてぶてしいステップはじつに正気で、だから彼らはまだまだ青いということだろうか。
 アルバム『ダブル・ファンタジー』のレコーディング現場で初めてジョン・レノンに会った篠山さんは、”へえ、これがあのジョン・レノンか”と思ったそうだ。いい感じで力が抜けて、篠山さんの言葉を借りれば「ジェントルでテンダー」なその佇まいがとても印象的だったという。正気のままで純化していくと、まさに「ジェントルでテンダーな」人間ができあがるようにも思うのだけれど、どうだろう? まあ、人間としてはちょっと狂ってるくらいのほうが面白いだろうけれど。
クョスコニョ    [1] 
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