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  ○月×日 われらが歌うときはいつか?
   大作「われらが歌う時」をタラタラと読んでいるうちに、年度が改まってしまった。決算も人事異動も関係ないフリーランスの身であってみれば、そのこと自体はさして意味はないのだけれど、やはりこんなご時世であることも手伝ってか、”えっ!?”と思わせられる人の動きがいくつかあった。そして、今日は、僕が90年代のほとんどの時間を居候させてもらっていた会社が実質的に解散状態になったという連絡をもらった。今この時が「100年に一度」の状況にあるのかどうかはよくわからないけれど、それにしてもずいぶんと時は流れているということなんだろう。
 そう言えば、”ずいぶんと時代は変わったものだ”と思ったのは、検察が二階某の立件に踏み切るらしいという情報を踏まえて、とあるニュース・サイトが「ここで辞めちゃ駄目」と訴えていたことだ。その記事によれば、ここで二階が辞めれば、小沢一郎への世間の批判がいよいよ高まり、結果、小沢が辞めることになれば検察の思うツボ、ということになるらしい。敵の敵は味方、というわけでもないだろうけれど、検察に嫌疑をかけられた何かと黒い噂が絶えない大臣をジャーナリズムが擁護(?)するなんて、なんだかややこしい世の中である。
「われらが歌う時」は、そのタイトルからも想像されるように、音楽を題材にした小説だが、そこで解き明かされていることのひとつは時間という概念の不思議である。そのなかで指摘されているように、我々が生きている現在は過去と未来との三重唱を奏でているわけだけれど、最近の”現在”はリミッターのかかったスピーカーで音楽を聴くように、”未来”部分か”過去”部分、あるいはその両方をカットされている場合が多いように感じる人も少なくないのではないか。
 実際の音楽の現場では、デジタル・データ化された音楽を圧縮した後に再生する形で聴かれることを前提にしたミックスが主流となり、ダイナミックレンジについての考え方もかなり変わってきている。時間とのアナロジーで言えば、”未来”も”過去”もカットされることなくちゃんと鳴っているのだけれど、その全体が、つまり歴史がシュリンクした状態で流通しているということになる。と書いておいて、「歴史がシュリンクする」というのがどういうことなのかあまりよくわからないけれど、「われらが歌う時」で展開されるアナロジーはおそらくはこの国の”今”においても十分に示唆的だろうと思われる。
 まだ読了していないので小説の結末がどうなるのかわからないけれど、とりあえずこの国においては過去、現在、未来が見事なハーモニーを奏でることはしばらくないのかもしれない。そういう状況を「100年に一度」というのであれば、これは確かになかなか大変な状況ということなんだろう。
クョスコニョ    [1] 
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