作者の故郷、長崎を舞台に、戦後のどさくさのなかで勢いを得た愚連隊一家で暮らす少年の成長を描いている。
思い出したのは、黒木和雄監督の映画『祭りの準備』だ。江藤潤扮する高知の田舎の郵便局に務める青年は、狭い人間関係のなかでさまざまな欲がストレートにぶつかり合いながらもどこかに突き抜けていくことがない生活にうんざりしている。だから、彼はその生活から物理的に突き抜けていくことを目指して故郷を後にする。原田芳雄扮する年長の幼なじみは、その生活のただれた心地よさに埋没してしまってもうそこからは抜け出せないことを承知しているけれども、それでも心の底でそんな自分にうんざりしているから、故郷を後にする幼なじみが都会に向けて飛び乗った列車に向かって声を限りに叫ぶ。映画は、ちぎれんばかりに腕を振って列車を見送るその原田芳雄の姿で終わるのだけれど、この小説では故郷を飛び出そうとした主人公の弟が東京から帰郷する話で終わる。
ここで主人公を支配しているのは、“自分がいま居る場所は本来居るべきではない場所だ”という感覚である。そして、その感覚は“自分はこの家族の一員であるべきではない”という意識に向かう。しかし、現実的には人は容易に家族であることを断ち切ることはできない。そして、年をとればとるほどその呪縛は強くなっていく。
さらに言えば、よしんば血縁や地縁を切って生きていくことになったとしても、それはそういう向きの血が生来身のうちに流れていたということであって、結局のところその生き方もみずからの血をまっとうしたということでしかないのだろう。
そう言えば、この作者のデビュー作は『最後の息子』といって、「私と暮らすことになれば、あなたの家の血があなたの代で途切れることになってしまう(=最後の息子になる)からよくない」という書き置きを残した恋人のおかまに逃げられる男の話だった。作者・吉田修一の作品には随所に同性愛の翳が見える。この『長崎乱楽坂』にもある。吉田自身の性向がどうなのか探ることには興味はないけれど、その同性愛の視線は血がつながっていくこと、あるいは血が途切れることへの視線と確実に重なっているように思える。
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